2007年 06月 21日
先生のオルガン |
昨夜、シャンソニエに出かける。 いまや日本のシャンソン界の頂点とも言える有馬 泉さんが「先生のオルガン」という歌を唄った。 幼いころの記憶が蘇ってきて涙が止まらなかった。
有馬泉は哀感たっぷりにうたいあげた。 唄うほどに彼の眼にも光るものがあった。
唄の内容は、小学校時代の思い出。 女性教師がオルガンを弾きながら、唱歌のおけいこをしている。 しかし、子どもたちに慕われた先生は空襲で亡くなってしまう。 唄を聴いていると古ぼけた教室の風景、そして、黒板の横に置かれていた小さいオルガンが見え、そして、オルガン独特のあの哀しげな音色さえ聞こえる。 反戦歌なのか。
私が小学校三年生時の担任教師は、当時師範学校(高卒後、二年課程)新卒のお兄さん先生で、初めての教職で出会ったのが私たち45人の生徒たちであった。 二十歳そこそこの若さと教育への情熱は幼い生徒たちにしっかり伝わり、子どもたちはみんな先生が大好きだった。できる子もできない子も大事にする先生だった。あるときは、先生の自宅(幼稚園)に知人の画家を呼んで、私たちの「お絵かき」教室を催したり、かなり自由にまっすぐにやりたいことをする先生だったと思う。放課後はガリ版刷りを手伝い、先生と一緒にいることがとても楽しかった。
あるときは、放課後、先生がオルガンを弾いて、何回も何回も同じ曲を練習する姿があった。先生自身得意でない音楽の予習をしている姿を子どもたちに見せたのは、意図があったのか知る由もないが、今思うと、そういうあまりかっこよくない姿、それでも努力する姿を子どもたちに見せることのできる大きい人物だったのではないか。(当時は全教科担任が担当していた)
三年生の三学期終業式が終わり、次の学年の持ち上がりを信じていたころ、3月の末だったと思う、母から先生の死を伝えられる。死の意味が分からない幼さながら、母が暗い重い声で私に先生が亡くなったという話を伝えた時、体とこころが固まった。 その感覚がいまでも記憶にあるのは不思議とも言える。その後のたくさんの楽しいことも、悲しいことも、ほとんどが記憶の彼方に消えていった今なのに、その時のことは半世紀以上たった今も決してわすれることが出来ない。
いまでは考えられないことであるが、職場での年上の女性教師との交際を親に反対されての心中だった。 ふたりで、城崎に死の旅に出て、服毒自殺。 翌日の新聞は大々的にその事件を報じた。 まだ、大人の新聞を読む年齢ではなかったが、何度も何度も読んだ。 そして、「ほんとうに先生はもう居ないんだ」と自分がからっぽになったように感じた。
九歳にして、はじめて味わった大切なものを失った虚無感。
有馬泉さんに「先生のオルガン」をまた聴かせて貰おう。
有馬泉は哀感たっぷりにうたいあげた。 唄うほどに彼の眼にも光るものがあった。
唄の内容は、小学校時代の思い出。 女性教師がオルガンを弾きながら、唱歌のおけいこをしている。 しかし、子どもたちに慕われた先生は空襲で亡くなってしまう。 唄を聴いていると古ぼけた教室の風景、そして、黒板の横に置かれていた小さいオルガンが見え、そして、オルガン独特のあの哀しげな音色さえ聞こえる。 反戦歌なのか。
私が小学校三年生時の担任教師は、当時師範学校(高卒後、二年課程)新卒のお兄さん先生で、初めての教職で出会ったのが私たち45人の生徒たちであった。 二十歳そこそこの若さと教育への情熱は幼い生徒たちにしっかり伝わり、子どもたちはみんな先生が大好きだった。できる子もできない子も大事にする先生だった。あるときは、先生の自宅(幼稚園)に知人の画家を呼んで、私たちの「お絵かき」教室を催したり、かなり自由にまっすぐにやりたいことをする先生だったと思う。放課後はガリ版刷りを手伝い、先生と一緒にいることがとても楽しかった。
あるときは、放課後、先生がオルガンを弾いて、何回も何回も同じ曲を練習する姿があった。先生自身得意でない音楽の予習をしている姿を子どもたちに見せたのは、意図があったのか知る由もないが、今思うと、そういうあまりかっこよくない姿、それでも努力する姿を子どもたちに見せることのできる大きい人物だったのではないか。(当時は全教科担任が担当していた)
三年生の三学期終業式が終わり、次の学年の持ち上がりを信じていたころ、3月の末だったと思う、母から先生の死を伝えられる。死の意味が分からない幼さながら、母が暗い重い声で私に先生が亡くなったという話を伝えた時、体とこころが固まった。 その感覚がいまでも記憶にあるのは不思議とも言える。その後のたくさんの楽しいことも、悲しいことも、ほとんどが記憶の彼方に消えていった今なのに、その時のことは半世紀以上たった今も決してわすれることが出来ない。
いまでは考えられないことであるが、職場での年上の女性教師との交際を親に反対されての心中だった。 ふたりで、城崎に死の旅に出て、服毒自殺。 翌日の新聞は大々的にその事件を報じた。 まだ、大人の新聞を読む年齢ではなかったが、何度も何度も読んだ。 そして、「ほんとうに先生はもう居ないんだ」と自分がからっぽになったように感じた。
九歳にして、はじめて味わった大切なものを失った虚無感。
有馬泉さんに「先生のオルガン」をまた聴かせて貰おう。
by Sidediscussion
| 2007-06-21 08:28
| 音楽
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